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やまねこ翻訳クラブ 資料室
松沢あさかさんインタビュー


『月刊児童文学翻訳』2002年10月号より

【松沢 あさか(まつざわ あさか)さん】
 1932年、愛知県生まれ。名古屋大学文学部文学科(ドイツ文学専攻)卒業。富山県在住。
訳書は、『エンゼル・マイク』(レギーネ・ベックマン作/さ・え・ら書房)、『一方通行』(クラウス・コルドン作/さ・え・ら書房)、『ウルフ・サーガ(上下)』(ケーテ・レヒアイス作/福音館書店)など多数。
『アマーリア姫とこうもり城』表紙
『アマーリア姫とこうもり城』
アレクサンドラ・フィッシャー=フーノルト作
ユーリア・ギンスバッハ 画家
さ・え・ら書房


Q★ご自分が訳された、劇団コーロの『だれが石を投げたのか?』の劇をはじめてご覧になって、いかがでしたか。
 『だれが石を投げたのか?
   『だれが石を投げたのか』表紙
A☆本は出版されると、訳者の手を離れます。劇になったら、それは脚本家、演出家のものです。純粋にお芝居として観て、感動しました。劇団の会報『コーロニュース』第11号に、演出・脚色されたふじたあさやさんが「ドイツであることに徹しながら、しかしドイツであることを忘れてもらいたい」と書いておられます。これは、まさに、ドイツ語の本を訳すとき、いつもわたしの念頭にあることです。わたしはこのような巧みな表現を思いつかなかったので、同氏のお許しをいただいて、これからときどき使わせていただきたいものだと思っています。『だれが石を投げたのか?』(注)の出版も劇化も、原作の良さから決まったことではありますが、わたしとしてはほんとうにありがたく、またうれしく、感激しました。もう1冊、わたしの訳した『ウーヌーグーヌーがきた!』(イリーナ・コルシュノウ作/さ・え・ら書房)も人形劇団クラルテによって劇化されました。こちらも訳者という立場をすっかり忘れて拝見しました。

(注)『だれが石を投げたのか?』(ミリアム・プレスラー作/1993年刊/さ・え・ら書房)は、脚が不自由で、まわりの人を責めてばかりいた少年が、弟の自殺をとおして、自分を見つめなおす物語。




Q★ドイツ語との出会いはいつですか

A☆大学の教養部の第2外国語としてドイツ語を選択しました。フランス語とドイツ語のどちらかを選択するようになっていたのです。フランス語もドイツ語も何も知らないことは同じですから、なんとなくドイツ語にしたとしかいいようがありません。大学1年の春、中学1年生が新しい世界をのぞいて興奮するのと同じ気持ちで、「アベセ」と「アーベーツェー」を聞きました。そして「アーベーツェー」のアルファベートのほうが気に入ったのだと思います。ところが、いざはじめてみると、ドイツ語は難しくてさっぱり身につきません。それで専攻を決めるときも、英文にするか独文にするかを迷いました。英語をとれば学校の先生にはなれるので、無難な道です。ドイツ語のほうは卒業後の展望がありません。しかし、なにか他人と違うことをやってみたいと思い、ドイツ文学を専攻しました。当時は英語ならラジオによる勉強もできたし、ある程度参考書類もありましたが、ドイツ語を勉強する手段はほとんどなく、大学の講義をうけ、大学のテキストを読むのが精一杯でした。家からの仕送りはなかったので、かけもち家庭教師でろくに勉強する時間もありません。ましてなんとなくはいった独文で、まともに力がつくわけはありません。卒業論文で書いたドイツ語など、まったくお粗末でお恥ずかしいしろものでした。 
 卒業後は就職難の時代でもあり、ドイツ語をいかせる仕事などあるはずもありません。今にくらべると、学卒女子の職場の選択の幅が信じられないほど狭い時代でした。
 しかし、教職の単位はとっていましたので、英語の教師になることができました。その後、中学で7年、高校で5年、英語を教えました。この間には、産休あけから子どもを人にあずけて職場に通った時期もあります。




Q★ドイツ語の翻訳をするようになったのはなぜですか。
A☆30代半ばで退職し、とたんに時間をもてあましました。退職は自分で決めたことでしたが、悔やむ気持ちもわきました。家で好きな編物などをして過ごしていましたが、もっとほかのこともしたい、できれば翻訳をしたいと思ったのです。翻訳は、ちらちらと頭のどこかにひっかかっていながら、ずっと忘れたも同然になっていた夢でした。わたしは今まで人には、遅い出発だったといういい方をしてきました。しかし、今回この取材で思い出したことがありました。高校生の頃に、読んだ本の一部を訳してノートに書きつけたことがあるのです。それも広い意味で言えば翻訳ですよね。今のような受験勉強など、だれもあまりしない時代ですから、時間はじゅうぶんあったのでしょう。まあ、本を読むついでに確認のために書きつけた、というのが本当のところだったのでしょうが、そのときから数えれば、夢の実現までにはずいぶん長い年数をかけたことになります。たまたま手にした英語の本のうち、断片的にノートに書いた記憶があるのがナサニエル・ホーソーンの『タングルウッド物語』という短編集です。英語の力もないのに筋にひかれて読んだのでしょうが、どんな日本語にこじつけたのやら、今見たらおかしくて笑ってしまうような訳文だったろうと思います。 さて、できれば翻訳をしたいと考えた外国語は英語ではなく、ドイツ語でした。教師をしていたとはいえ、英語の翻訳をする自信はありません。英語もドイツ語もどちらも同じように実力不足で、一から勉強するなら、ドイツ語にしようと思ったのです。英語を訳す力のある人は多いので、競争もさぞ厳しいだろうという計算があったのも事実です。



Q★どのような勉強をされたのでしょう。
A☆大学の聴講生となり、ドイツ人講師のクラスで小説を読みました。ドイツ人のドイツ語を聞いたのはこの時がはじめてです。大学院の学生さんや若い講師の方たちと同じクラスで、とりのこされまいと真剣でしたね。強い刺激を受けた、とてもいい経験です。また、当時住んでいた松本市でドイツ語同好会に参加しました。初歩の勉強会だったため、わたしは教える立場でしたが、“教えることは習うこと”を実感しました。同好会の発起人の花岡昭子さんと、のちに『あおむしのぼうけん』(イルムガルト・ルフト作/さ・え・ら書房)を共訳しました。花岡さんはとても熱心で、当時まだ赤ちゃんだった子どもさんをベビールームにあずけて勉強会に出ていたんですよ。わたしは花岡さんの熱意に引きずられたようなところもありました。同好会のメンバーが転居などで減っていき、花岡さんとふたりになってからも、エンデの『モモ』や『はてしない物語』などの長編を何年もかけて読みました。家ではひとりでドイツ語の原書を速読しました。とにかくたくさん読まなければ、慣れなければという気持ちでした。この頃、訳文をつくることもしましたね。たくさん書いたせいで、指が痛くなり、もう書くことはあきらめるしかないという瀬戸際に、ワープロを手に入れて、ほっとうれしかったのを覚えています。ワープロのおかげで訳稿を仕上げることができました。



Q★1冊目の訳書『だれが石を投げたのか?』が出版にいたったきっかけを教えていただけますか。
A☆気に入った本を何冊か訳しましたが、さて、それをどうしたものか見当がつきませんでした。その方面の知り合いはないし、どういう出版社がどういうものを出しているかということも知りません。翻訳家と呼ばれる人はどうやって世に出たのだろうと考えたとき、わたしの場合は勇気を出して自分で売り込むしかないと思いました。じつはそれまでに売り込みというものを好きな編物で一度経験しているのです。自分のもの、家族のもの、プレゼントなどをせっせと編んでしまうと、さてどうしようと思いました。新しい模様でもっと編みたいけれど材料費がかかるし、着るあてもなしに編むために編むというのはつまらない。それで毛糸屋さんに売り込みました。顔なじみのお店でしたが、仕事をさせてほしいと頼むのはずいぶん勇気のいることです。思いついてから実行するまでに何日も迷いました。注文の品も編みましたし、店頭に吊るすサンプルも編みました。今、ふと思うのですが、人の材料でものを作って、ほかの人が着られるようにするのと、人の作品を訳してほかの人が読めるようにするのと、ちょっと似ています。こじつけかしら。その編物の売り込みが、後から考えれば翻訳の売り込みの予行演習でした。この1歩があったから、生まれつき臆病なわたしがすこし大胆になれたのかもしれません。
 しかし、訳稿を売り込むといっても、どこへ行けばいいのかわかりませんでした。毛糸屋なら店へ入って行けばいいのですが、出版社となると話が違います。 ある時、駅でいつもは買わない新聞を買いました。その書評欄にミリアム・プレスラーの『ビター・チョコレート』(中野京子訳/さ・え・ら書房)が出ているのを見たのです。プレスラーには注目していて、3作品ほど試訳もできていました。さっそく、そのなかから『だれが石を投げたのか?』の訳稿を、さ・え・ら書房に送りました。宛名は「『ビター・チョコレート』ご担当の編集者の方」としたと思います。それから出版が決まるまでの何か月かの間にも、ほかの作品の訳稿を送ったり、本についてお手紙をさしあげたりしたと思います。さ・え・ら書房からは、参考にと、それまでに出版された本を送っていただきました。 そして、還暦をむかえた翌年、『だれが石を投げたのか?』が出版されました。はじめての経験で、文章の手直しからなにから、出版社にずいぶんお世話になりました。あまり年のことをいいたくはないのですが、中高年の方にそのことをいうと励まされた、勇気をもらったと喜んでいただけるので、ついいってしまいます。



Q★その後、1年に2、3冊のペースで新刊を出されています。原書選びなど、どのようにされているのでしょう。
A☆それまで、たくさん読むことを目的に、途中で飽きないミステリなどのエンタテインメントものを読むことが多かったのですが、『だれが石を投げたのか?』の出版が決まってからは、ドイツ語の児童書を中心に探すようになりました。子どものために真剣に本を書き、作っている世界にふれて、はじめて児童書に目が開いたというところです。本はドイツへ行ったときに探したり、ドイツの通信書籍販売会社に注文して取り寄せたり。編物内職で稼ぐお金を本につぎこんでいました。やまねこ翻訳クラブのホームページを見ると、海外の本の情報がさまざまな形で紹介されて、これから翻訳業を目指す方にはとても参考になりますね。当時はそういう親切なクラブもなし、情報にうとい者が個人的に本を探すというのは簡単なことではなく、とにかく自分で探すしかないと思いました。たまに洋書を置いている東京の書店をのぞく機会がありましたが、英語関係の本はたくさんあっても、ドイツのものは古典か既訳の有名作品がわかずかにあるだけでした。いまはインターネットで本探しができるようになって、便利になりましたね。90年代はドイツの店頭で見つけた未訳本を持ち込んで出版してもらうことが多かったと思います。最近はエージェンシーからの推薦の本をたくさん見せていただいています。



Q★首都圏以外で、翻訳の仕事をする大変さなどはありますか?
A☆IT時代になって、地方の不利、不便ということはあまりなくなったのではないかと思っています。 1冊目の訳書『だれが石を投げたのか?』が出版されてまもなく、富山に越してきました。翻訳というのはもともと孤独な作業ですし、なれない土地に来て、最初は寂しい思いもしました。やがて「トランスネット富山(とやま通訳者翻訳者の会)」に参加するようになり、同じような方面のことをしている方たちと知りあいました。ときどき会う機会があり、地方居住者同士で話がはずみます。



Q★今後の予定を教えてください。
A☆アレクサンドラ・フィッシャー=フーノルトの「王立ユウレイ学校のなかまたち」第1巻『アマーリア姫とこうもり城』が10月はじめに出版されました。これは小学校中学年向けの楽しい本で、この後、第2巻、第3巻と続きます。
 また、ミリアム・プレスラーの『マルカ・マイ』のあらすじと部分訳を出版社に送ってあります。出版のはこびになればいいがと思っているところです。これは、ポーランドに住んでいたユダヤ人の母子の逃避行の話。主人公の子どもは7歳。母にはぐれて厳寒のゲットーに隠れ住みながら、ユダヤ人狩りのドイツ兵の目をのがれ、子どもとは思えない知恵と運で生きのびました。モデルの女性は今、イスラエルで暮らしているとか。2002年のドイツ児童文学賞の候補作品でもあります。



Q★翻訳家をめざすみなさんへのアドバイスをお願いします。

A☆聞くところでは、今では翻訳業をめざす方がほとんど翻訳学校とか講座で勉強する時代のようですね。それだけ多くの勉強の場があるわけですが、一方ではまた、競争も激しいのでしょう。わたしはドイツ語で、地方住まいで、競争相手もなく、刺激もなく、ひとりでやってきたので、今の時代にはあまりご参考にならないように思います。
また最初に児童書を持ち込んだ出版社で、それがそのまま本になったということでは、あまり売り込みの苦労もしていないわけです。それでもひとついわせていただけば、まず、出版社に持ち込むためには、必ず優れた作品を選ぶことが大切でしょう。優れた作品なら、必ず注目してもらえるに違いありません。わたしもはじめて持ち込んだ作品が優れていなければ、結果はかなり違ったことになっていたと思います。運が良かったのは確かですが、それよりもまず選んだ作品が良かったのです。プレスラーさんに恩を受けているといえます。優れた作品を選ぶためには、たくさん読んで目を養うしかないのでしょうね。ただし、たくみに情報を取り入れて自分のものにする道もある時代ですから、ここでも競争は激しくなっているといえるかもしれません。 わたしはまだパソコン初心者で、能率よく情報を取り入れて「目を養う」ことが不得手ですから、今までどおりのんびり歩いています。たとえば、わたしは富山こども劇場の「エディーの本棚」という児童書読書会に参加し、本の情報を得ています。できるだけドイツの本を読みたい、訳したいと思っていると、なかなか日本国内で読まれている本にまで手を広げる余裕がありません。この「エディーの本棚」は人形劇団クラルテの『ウーヌーグーヌーがきた!』が偶然富山へ招かれたことをきっかけにしてできた読書会です。子ども劇場を運営し、その間にもさまざまな親子共同の行事を企画実行しているお母さん方は、本もよく読んでいます。中には広範な知識と的確な鑑賞眼をお持ちの図書館司書の方もいて、新しい本の情報も得られますし、とても実りの多い読書会です。その場でテキストとして読んだり、そこで名前を聞いたりしなければ、知らないままになっていた本はそれこそたくさんあります。この会がずっと続いて、やまねこ翻訳クラブのどなたかが訳された本をテキストに取り上げる日がきたら、それこそすてきですね。
 また「高岡メルヘンの会」というドイツ語でメルヘンを読む会にも顔を出しています。先生とは呼ばれていますが、わたしにとって言葉について考える勉強の場です。この会のメンバーと『絵で見るある町の歴史――タイムトラベラーと旅する12,000年』(アン・ミラード絵/スティーブ・ヌーン文/さ・え・ら書房)を共訳でき、しかも第48回産児童出版文化賞の大賞をいただくという稀有の経験をしました。これはもちろん、原作のきわだったすばらしさに対して贈られた栄誉です。会のメンバー全員が翻訳家志望というわけではありませんが、みなさん焦らずに、ゆっくりと楽しんでいるようです。テキストを用意し、週1度足を運ぶのはたしかに大変ですが、そのうちに花岡昭子さんのように一緒に翻訳のお仕事をできる人が出てくることを楽しみにしています。
 ふりかえってみると、ずいぶん長い道のりだったと思います。わたしの場合は翻訳に関係した知人もなし、はじめからひとりでやってきました。今、翻訳をしたいと考えている人は、ずっとめぐまれていますね。やまねこ翻訳クラブからも参考になる情報を得られるし、ほかにも能率的な勉強の場はあふれています。それらをうまく利用して、どうぞ翻訳の仕事についてください。そして先にもいったことですが、たくさん読んでお力をつけてください。
 ネットの掲示板をのぞくと「どうすれば早く楽しく語学力が身につくか。それにはどのような辞書、参考書がおすすめか。どこの教室の評判がいいか」というような質問が目につきます。利口な考え方ではありますが、イソップ物語のロバを売りに行った父と息子の話を思い出します。会う人会う人がいろいろにいうのでその通りにした結果は?というお話ですね。でも、たくさんの人の意見を参考にして、うまく生かせれば、もっとも賢い道でしょう。
 わたしは「ひとりでやってきた」といいましたが、あらためて考えると、ずいぶん傲慢でした。翻訳とは原作あってのもの。これは翻訳家をめざすみなさんにというより、わたし自身への自戒なのですが、原作者への感謝は忘れたくないものと思っております。
『だれが石を投げたのか』表紙『絵で見るある町のの歴史――タイムトラベラーと旅する12,000年』

インタビュアー:よしいちよこ
2002-10-15作成

※本の表紙は、出版社の許可を得て使用しています。

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