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愛甲 恵子 さん ・ 三島 絵美 さん インタビュー

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『月刊児童文学翻訳』2022年4月号より一部転載


 今回ご登場いただくのは、イランの絵本『ボクサー』(ハサン・ムーサヴィー文・絵/トップスタジオHR)を翻訳された愛甲恵子さんと、この作品の翻訳出版を企画し刊行を実現させた三島絵美さんです。2019年ブラチスラバ世界絵本原画展(BIB)グランプリ受賞作である本作を日本の読者に届けてくださったおふたりに、お話をたっぷりうかがいました。お忙しいところ、快くオンラインでのインタビューに応じてくださった愛甲さんと三島さんに、心から感謝いたします。



【愛甲 恵子(あいこう けいこ)さん】

 ペルシャ語翻訳家。東京外国語大学大学院修士課程修了。イラン留学後、2004年から美術家フジタユメカ氏と組んだユニット〈サラーム・サラーム〉で活動、展覧会開催などを通じてイランの絵本やイラストレーターの紹介に努める。手がけた作品に、翻訳を担当した『ごきぶりねえさんどこいくの?』(M・アーザード再話/モルテザー・ザーヘディ絵/ブルース・インターアクションズ)、再話を担当した『2ひきのジャッカル』(アリレザ・ゴルドゥズィヤン絵/玉川大学出版部)などがある。

サラーム・サラーム ウェブサイト

愛甲恵子さん訳書リスト


【三島 絵美(みしま えみ)さん】

 編集プロダクションである株式会社トップスタジオに勤務、編集や英日翻訳に携わる。イランの絵本を邦訳出版する企画を社内で立ち上げ、子会社である株式会社トップスタジオHRにて2021年11月に『ボクサー』の刊行を実現させた。本書は「世界と出会う絵本」シリーズの第一弾でもある。

トップスタジオHR ウェブサイト

みしまえみさん note




■絵本『ボクサー』の魅力■

―― 最初に、『ボクサー』という作品の魅力や特徴についてお聞かせください。

『ボクサー』表紙画像

『ボクサー』
ハサン・ムーサヴィー文・絵
トップスタジオHR

月刊児童文学翻訳2022年4月号
「プロに訊く」連動レビュー

【愛甲恵子さん】(以下【愛】) なんといっても絵の力強さです。作者は紙でなく板にアクリル絵の具で描いているそうで、色に厚みがあり、作品にかける思いが伝わってきます。日本語版は印刷の質が高く、原書よりさらに迫力のある本になりました。

【三島絵美さん】(以下【三】) この作品のいちばんの魅力は、色彩の豊かさだと思います。最初の見開きに描かれた街並みが特に好きです。内容に深みがあるのもいいですね。ボクサーの話ですが、こぶしで打つことばかり繰り返すその行動は、さまざまな物事の象徴とも受け取れます。どうしてこんなに頭が小さく、手が大きく描かれているの、など、問いかけたくなる部分もたくさんあって……。

【愛】 翻訳の過程で気づいたことがあります。ペルシャ語の原文では、途中まで「こぶし」が主語なんですよ。それがある場面を境に、ボクサーがこぶし「で」打つ、というふうに文の構造が変わっています。明らかに書き分けているんです。イランの絵本は伝統的に、文と絵を別の人が手がける例が多いのですが、本作は画家が文も書いているからこそ、文と絵がぴたっとくる形になっていると思います。



―― 本作はBIBグランプリ受賞作です。イランはBIBには1969年の第2回から出展しているそうですね。

【愛】 はい。当時から国内の体制が整っていて、出展作を決める選考や英文概要の準備ができたということです。自分たちのすばらしい絵本を世界に向けて発信しようと気概を持って活動する人たちがいて、戦争などを経験しながらもそれが続いてきたのは、意義が大きいと思います。(※)

※イラン人画家のBIBグランプリ受賞者は2005年のアリレザ・ゴルドゥズィヤンと2019年のハサン・ムーサヴィーの2名。BIBではまた、1969年にファルシード・メスガーリの作品が佳作となった(邦訳『ちいさな黒いさかな』サマド・ベヘランギー文/香川優子訳/ほるぷ出版)のを皮切りに、イランから多数の入選者が出ている。
ブラチスラバ世界絵本原画展(BIB)公式ウェブサイト


■イランの絵本を日本の読者に■

―― 三島さんがイランに興味を持ったきっかけは何だったのでしょう。

【三】 2001年の9・11のときアメリカに留学していたんです。縁遠いと思っていた中東に目が向き、なかでも印象に残ったのがイランでした。歴史などを知って少し身近に感じられるようになって。それ以来、直接関わることはなくても気になる国でした。
 2008年に、たまたま東京の渋谷で「だれも知らないイランの絵本」展というのが開かれていることに気づき、見にいきました。当時は知りませんでしたが、その展覧会の主催者が、愛甲さんとフジタユメカさんのユニット、サラーム・サラームさんだったんですよ。会場で、イランの言語であるペルシャ語で書かれた絵本を買いました。言葉はわからないけれど、不思議でおもしろい本だなと思って。文字がデザインの一部になっているなど、全体的に斬新なんです。未知の世界で、心惹かれました。

【愛】テントウムシやアリ、クモなど、虫たちの小さなお話が並んだ絵本ですね。そのイラストを手がけたモルテザー・ザーへディは、わたしが訳して2006年に出版された『ごきぶりねえさんどこいくの?』の絵も描いている人です。



―― おふたりは当時から絵本を介して出会っていらしたのですね。

【三】 その後、2019年に上野の国際子ども図書館で「詩と伝説の国―イランの子どもの本」展が開催中と、やはりたまたま知りました。それがきっかけで、渋谷で買った不思議な絵本の記憶がよみがえり、イランの絵本で何かやれないかと思い立ったんです。展示を見て、翻訳家の愛甲さんのお名前を知ることもできました。企画に1年かけ、『ボクサー』の制作に入ったのは2020年です。



―― 翻訳出版する本は複数の候補があったとか。『ボクサー』を選んだ決め手は?

【三】 イランの絵本を何冊か検討しました。明確な決め手があったとはいえないかも(笑)。絵本の制作が初めてでいわば素人でしたから。ただ、やはりBIBグランプリ受賞作で専門家も評価していることと、自分の目で作者の絵をじかに見る機会があり、いいなと感じました。『ボクサー』の原画ではなかったのですが。

【愛】 板橋区立美術館で開催された「2020イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」に、作者の絵が1枚だけ出展されていたんですよね。カタログの表紙の原画です。わたしも実際に見て、ああ、こういう質感なんだ、と感銘を受けました。



―― 初めての絵本制作、どんな点でご苦労されましたか。

【三】 経験がなかったため、絵本特有の編集、たとえば漢字をひらくとか、分かち書きにするとか、そういうことも知らなかったんです。編集協力の広松由希子さんに、本当にたくさん教えていただきました。



―― 絵本評論家・作家・翻訳家と幅広くご活躍の広松由希子さんですね。

【三】 広松さんはBIBの審査員もなさっています。その方が『ボクサー』の原書についてツイートしていらっしゃるのを見て、面識はなかったのですが思い切ってアプローチしたところ、引き受けてくださいました。基本的なことはこちらでやり、広松さんにご意見をいただくスタイルで進行しました。

【愛】 「これでいい」「まだだめ」といった線引きは難しいものですが、そこを決めてくださるのが広松さんでした。主にオンラインでやりとりしながら、気になることは全部いってくださって、それだけでもすごい労力だったはずです。



―― ペルシャ語はペルシャ文字を用いて右から左へ書く言語なので、原書は右開きですね。『ボクサー』の日本語版は左開きで、逆になっています。

【三】 はい、原画を反転させた逆版です。元の形での出版も検討しましたが、右開きだと縦書きになります。この作品の場合、垂直に配されたテキストが絵の流れを妨げると考え、最終的に逆版・横書き・左開きを選びました。

【愛】 イランの人たちも、左から右へ書く言語の国で出版されるときは逆版しかないとわかっています。ただ、日本語版を出す場合は、逆版にせず右開きのまま文は縦書き、という選択肢があるわけだから、むしろ可能性が広がるんですよ。


■ペルシャ語、そしてイランとの「縁」■

―― 愛甲さんとペルシャ語やイランとの出会いは?

【愛】 ご縁としか、いいようがないですね(笑)。入り口としては、ペルシャ文字の造形美に惹かれました。大学でペルシャ語を学ぶことになったのがご縁の始まりです。あるとき国際子ども図書館で、野間国際絵本原画コンクール入賞作品の展示を見る機会があり、イランから多数入賞しているのを知りました。それで、「詩の国」と呼ばれるくらい詩が人々の暮らしに根づいているイランのこと、絵本は絵がいいだけでなく、きっと言葉もおもしろいだろう、と想像したんです。



―― その後イランに留学されたのですね。期間はどれくらいでしたか?

【愛】 10か月ほどです。行くときに何かを目指していたわけではありません。ただ、絵本を見てみようとは思っていました。でもなかなか出会えなくて。当時のイランでは書店に児童書が見当たらず、中東一といわれるテヘランの書店街でもみつからない。そんな折、偶然タクシーで通りかかった場所で、鳥のマークが目に飛び込んできたんです。気になって後日行ってみると、鳥がシンボルマークのカーヌーン(児童青少年知育協会:出版局をもつ政府系の教育文化機関)の直営店で、他社の本も含め、すてきな絵本がたくさん。ここにあった!と思いました。子どもの本は、おもちゃなどとともに専門の店で売られていたんですね。



―― まさに、絵本との出会い、ご縁ですね。

【愛】 帰国するときは絵本をいっぱい抱えてきました。とはいえ、いつか日本語に訳したい気持ちはあっても、プランは何もなし。そんなわたしに、友人で美術家のフジタユメカさんが、いきなり出版は大変だからまず展覧会を開いてイランのイラストレーターの絵を紹介しては、と具体的に提案してくれたんです。最初の展覧会は2004年に銀座のギャラリーで開きました。実はそのとき、広松さんが来てくださったんです。あちこちにDMを配ったので、それをご覧いただいたのかもしれません。



―― 「詩の国」イランだそうですが、イラン人にとって詩は身近なものですか?

【愛】 とても身近です。詩画集がジャンルとして確立していて、子どもの本でも韻文になっているものは多いです。14世紀の詩人ハーフェズの詩集を使ったハーフェズ占いというのがあるくらい、詩が生活に密着しているんですよ。占いでは、何かを願いながら詩集をパッと開き、そのページの詩から運命を解釈します。ハーフェズの詩は心が落ち着く、つらいときに読むといい、というイラン人もいますね。ただ難解なので、占い用に詩の解説が添えてある版も出ています。



 

『ごきぶりねえさんどこいくの?』表紙画像

『ごきぶりねえさんどこいくの?』
M・アーザード再話
モルテザー・ザーヘディ絵
ブルース・インターアクションズ

―― 愛甲さんが最初に訳されたのが、先ほど名前の挙がった『ごきぶりねえさんどこいくの?』を含む、「詩の国イランの絵本」シリーズの5作(ブルース・インターアクションズ/2006年)ですね。

【愛】 いろいろな人に助けられながら、必死に文字を移し替えた感じでした。シリーズとして一気に出したいという出版社の意向があり、毎月1冊ずつ刊行するハードスケジュールで、大変でした。

 

―― シリーズとはいえ、この5冊は判型もまちまち、縦書き・横書きも統一されていないし、作品の雰囲気が1冊ずつまったく異なり、おもしろいですね。

【愛】 このシリーズの造本は、編集者や装丁家の方にお任せだったのですが、作品ごとに最もよいものをと考えてくださったときに、1冊ずつ違う形になったということかと思います。まちまちといえば、たとえ同じ作家でも作品ごとに作風がぜんぜん違うのが、イランらしさかもしれません。振り幅が大きいというか、物語に合わせてその都度異なるテクニックを、常に高品質で出せるアーティストが尊敬されます。物事をどうとらえたか、その表現の仕方として、ひとつの方法をみつけるのでなくバリエーションを追求する、そういうことに長けている人たちだと思います。



―― 以前ほかのインタビュー(※)で、「絵本を読んでみて、もっとイランのことが分からなく」なってほしい、とおっしゃっていたのが印象に残っています。

【愛】 いまも変わらない気持ちです。言葉にとらわれず、できるだけ言葉の外側に出ていくイメージでやっていきたい。絵本はそれをもたらしてくれるものだと思います。イランの絵本を扱ってはいますが、わたしが読んでいるのは、1冊1冊の作品です。イランの絵本ってどんなのですかと訊かれても、一言ではいえない。その、一言ではいえない中身を、丁寧に伝えていくしかないと思っています。

「絵本で見るイランの一側面」(2006年4月22日ライブドア・ニュース)


■世界の絵本を、未来へ向けて■

―― おふたりとも、絵本にまつわる思い出はありますか?

【愛】 小さいころ、家に当時のブックローンの海外絵本がたくさんあったんです。本が大好きな子でもなかったし、有名な作品もあまり読んでいないのですが、母が読み聞かせの上手な人で、読んでもらった記憶が大きいですね。

【三】 わたしも子どものころ、家に翻訳ものの絵本がたくさんありました。ほとんどがほるぷ出版の本で、母が毎月、まとめて買っていたようです。ページを開けば異世界、という感覚が好きでしたね。本棚に海外の絵本があること自体が大事だったな、と思います。本をちょっと開いては想像するのが楽しくて。


―― 『ボクサー』は表紙や背表紙にペルシャ語タイトルがあしらわれ、イランの文化を紹介するリーフレットも挟み込まれて、制作陣の意気込みを感じます。

【三】 リーフレット『パンジーだより』、今回はイラン編ですが今後も続けていきたいです。「パンジー」の由来はペルシャ語なんですよ。ペルシャ語で数字の5はパンジと発音し、ハートをさかさまにしたような形をしていてかわいいんです。それを花びらが5枚あるパンジーの花にかけて、4枚はわたしたち絵本制作室のスタッフ4人、1枚は読者や作者、作品そのもの、そんな意味を込めました。


―― 「世界と出会う絵本」シリーズの今後の予定をお聞かせください。

【三】 まだ具体的には決まっていませんが、年に1冊は出していきたいと思っているところです。地域は限定せず、世界中の絵本を紹介したいですね。


―― 愛甲さんは今後どんな作品を訳したいとお考えですか?

『2ひきのジャッカル』表紙画像

『2ひきのジャッカル』
愛甲恵子再話
アリレザ・ゴルドゥズィヤン絵
玉川大学出版部

【愛】 絵本はもちろん、YAにもいい作品があるので紹介したいです。イラン・イラク戦争を題材にしたものとか、別れて暮らす少女と父親の交流を描いたものとか。



―― 最後に読者へのメッセージをお願いします。愛甲さんには、特に文芸翻訳を志す人に向けて一言お願いできれば。

【三】 日本にもよい絵本はたくさんありますが、海外の作品を読むと、自分の知らなかった情報や感覚に出会えると思っています。わたしたちの出す翻訳絵本が、読者にとって知らない世界に触れるきっかけになればいいなと願っています。

【愛】 今回の翻訳を通して、作品の世界に没入すれば道は開けると感じました。絵本だと文字の量は少なくても難しさは多いですが、とにかく絵をいっぱい見て、文を読み込んで、そのなかで少しずつたぐり寄せることのできるものがある。三島さんや広松さんをはじめいろいろな方のご意見を聞きながら、作品にだんだん近づいていく体験をしました。ただ読むだけでは味わえない、絵本とのまじわり方ですね。そこに翻訳の喜びがあると思います。





 人や言葉や作品との、たくさんの出会い――不思議な縁で結ばれたおふたりの思いが、パソコンの画面越しにもひしひしと感じられる、充実のインタビューでした。

 2022年の米国図書館協会(ALA)各賞のうち、バチェルダー賞オナーの1冊にイランの絵本が選ばれています(※)。国際的にも注目されるイランの絵本、これからどんな作品が日本に届けられるか、期待して待ちたいと思います。豊かなバリエーションで、だれも知らない魅惑の世界へ連れていってくれるに違いありません。

2022年バチェルダー賞発表 オナー作品(やまねこ翻訳クラブ 速報/海外児童文学賞)

取材・文/古市真由美
取材チーム/赤塚きょう子
2022-04-15作成(担当:hanemi)

※本の表紙は、版元ドットコムにあるものを利用しました

 

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